寅彦の科学的業績は、晩年の昭和期に入って論文数が急増し、現代でも十分国際的に通用するものが多いことを指摘した。特に寅彦の論文内容が圧倒的に「地球科学」に関するもので占められ、物理学的論文は総論文数(224編)のうち五分の一程度であり、寅彦は「地球科学者」と呼ぶのが相応しいことを強調した。
寅彦の論文内容は、時代を追って調べていくと、大正12年9月1日の関東大震災を境に大きく変化した。震災前は磁化作用、音響学、振動学など純粋物理学的な内容のものがほとんどであった。しかし震災後は地殻変動・砂層実験・火山学・日本海拡大説や地震学関連の論文へとシフトした。彼の随筆についても関東大震災前後で同じような変化が認められる。関東大震災に遭遇したことで寅彦の人生観が大きく変化したことは紛れもない事実だと思う。
今回の発表ではX線結晶学、椿花の落下と地震発生回数の相関、金平糖(ゆらぎ=統計的異同)の角の数やその成因についても述べた。さらに、随筆には一切記載がない寅彦の「プレート論(?)」の論文紹介も行った。発表時間が限られていたため、科学者として彼の名を不動のものとした疑似周期性、アポトーシス(生物の細胞死)、カオス、フラクタル、地殻変動論、温泉・石油の成因論、複雑系の科学、動物のサイズと寿命などの興味深い論文や随筆の内容を紹介できなかったことは残念であった。
発表の後半は、災害・防災に関する寅彦の随筆の内容を説明した(関東大震災に関連するものが最も多い)。「防災」という言葉の生みの親は寺田寅彦だと言われている。災害進化論・震災健忘症・《忘災》(私の造語)への訓戒・防災の難しさ・減災・正当に怖がる方策・防災教育などについて、寅彦の言葉を引用しながら解説した。
寅彦は多くの随筆の中で、口を酸っぱくして過去の震災の記憶を忘れず対策をしておくように言い続け、防災・減災の手だてや施策を強い口調で迫っていた。これらの重要な提言にもかかわらず、一向にそれらの働き掛けの効果が見えてこなかった。晩年になっていささか疲れてきたのか、その論調は、よりシニカルになっていった。《いくら建設的な提言をしても、政府も国民も聞く耳を持たないように見える。ならば、自然災害は来るべくして来るのだから災難を被っても仕方ない、それが自然淘汰というものかもしれない》と、寅彦はやや投げやり的な口調になっていったのである。
このように寺田寅彦が晩年に抱いた「震災対策」に対する絶望感はわからないでもない。しかし、表には形として現われていないかもしれないが、寅彦の具体的な防災・減災論は現代に生かされ、有効に働いていることは間違いない。3年前に起きた東日本大震災でも、もし寅彦の数多くの防災提言がなかったら災害はさらに拡大していた可能性は十分考えられる。さらに来るべき南海トラフ大地震の減災社会作りへ、寅彦随筆が空文にはならず、大きな指針・参考になることを信じて疑わない。
今回の「第18回谷崎潤一郎研究会」では、門外漢として寺田寅彦について発表の機会を与えていただいた。千葉俊二氏・明里千章氏・山口政幸氏・細川光洋氏らと親しくお話しすることができたことを嬉しく思い、感謝しています。【鈴木堯士】